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多事奏論

姫路出身、長岡在住のフルート・篠笛奏者によるblog。フルート・篠笛教室もやってます。お気軽にお問い合わせください。ブログ内の画像はクリックすると拡大版が見られます♪

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神懸かり

神霊の仕業かとも思われるような様子を「神懸かった様子」とか言います。
(※ よく使用される「神懸かる」は一見正しい終止形に見えるが、「神懸かり」はサ変動詞であるので、正しくは「神懸かりする」が終止形。)

最近、気晴らしにネットでライヴ映像なんかをよく観てるのですが、同じ曲でも会場によって印象が違います。付けられたコメントにも、「○○会場のが一番!」「○○でのこの曲は神懸かってました!」というものが。確かに、同じツアーを二つ続けて聴きにいくと、構成は同じなのに印象が違ったりしています。


演奏する立場から、ふと考えてしまいました。
同じ曲なのに違うとき。確かに、あります。自分の気持ちが研ぎ澄まされて、集中力が増すのが分かるとき。そういうときは「とても良かった!」と言って頂けることが多い。
「○○の曲を吹き始めたとき、会場の空気が変わったね」と言われることもあります。
そう、空気が変わるんですよ。それは自分でも分かる。
そういうのが、ちょっと神懸かった感じ? なのかな? 演奏している私は、自分が自分でなくて、ただ音楽を実体化させる媒体であるような、そんな感覚に陥っています。そのときは何も考えられませんから、あとから考えたら、ですけど。

演奏だけでなく、学校の授業でもたまに感じることがあります。昨年度末の1年生の授業は凄かったなぁと……あれを超えるものはしばらく無理だな、と思っています。
場が違うと、指導案が同じでも、「同じ授業」はもう出来ないですからね。


「良い演奏・授業をした」というのと「神懸かってたかもしれない」と思うのと、何が違うんだろう、と言えば、空気が違う、これに尽きます。
場の空気を操ってる感じがするんですよ。
部屋の中の空間、隅まで全て支配して、全部を自分が好きに使う。その場に居る人たちの呼吸も貸してもらってる。会場が一体になって、演奏後のため息がみんな一緒のタイミングになったりする。
レッスンの時は1対1のことが多いから、人の「気」の数が少ないからか、「良いレッスンをした!」というのが最上級にきてる気がします。空間の支配までは至らないですね。教えてるのであってコンサートではないから。

とすると、学校での授業は「教える」というより「レクチャーコンサート」に近くて、教えながらも一緒に音楽を楽しむ、という気持ちが私の中で大きいなというのが分かります。
もとより、そのつもりですが(笑)。幸い、それが許される中途半端な立ち位置だと思うし。多分。基本は押さえますが、それに加えて私にしか出来ないことをしなければ、私である意味が無いからね。音楽全般を捉えてエッセンスを抽出すれば、「音を媒体とした自己表現とコミュニケーション」になると思うんだけど……どうだろう。これを生徒の身体に気付かれず埋め込みたい。そんな野望が基になっています(笑)。


で、神懸かり……これを一度味わうと、虜になるんです。
昨日の記事に、篠笛の勉強のためにフルートを断つことができなかった、と書きましたが、私がフルートを止められなかった原因は、このためでもあります。会場との一体感、場への支配感をまた味わいたい。
篠笛でもそういう瞬間を味わうことが出来るようになって、それで少し自信が付いて、演奏会にも積極的に出るようになりました。
常にそういう演奏が出来たら良いのでしょうけど。こればっかりは、会場そのものの雰囲気もあるし、あまり自由になりません。だからと言って、依頼された演奏を選り好みする身分でもないし。もちろん、どこであっても良い演奏はしますけど……神様は私以上に気まぐれですからね(^^;
せめて、そういう瞬間が少しでも多く訪れるよう、自分を磨いて行こうと思っています。
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