有りのままの海。
日本海、今日もきれいです♪
新潟市の「マリンピア日本海」の側。
兵庫県の瀬戸内(※)に住んでいた私にとって、日本海のイメージは「広い」「青い」「波がきつい」「島がない」ドラゲナイ(違)。
数年に一度の夏に泊まりがけで遊びに行く、田舎のリゾート地だと思っていました。城崎温泉の先にある海。
冬は竹野温泉などに行っていたわけですが、雪が凄くて、たぶん海は見ていません。
※「瀬戸内」という地名ではなく、瀬戸内海沿岸地域のこと。セトウチ。
その雪の凄い日本海側に、何故かいま住んでいるわけで。瀬戸内海よりも余程好きです。もともとそのケは有りましたが。
今も昔も、ちょっと車で走れば海、という環境に住んでいると、いつでも行けるため普段わざわざ行かなくなります。少なくとも私はそういう種類です。
ただ、車やバイクで走ってみるのは好きなので、「海見て帰ってくる」ということはよくやっていました。
見るだけ。
あー、海。
それだけ。昼も夜も。
それがここ数年、見てきれいだと思えるようになりました。
これは多分、以前は、何かを見ようとしていたのだと思います。いまは、「ただ見る」ことができる。
有りのままを見ることは、案外難しいのです。
人を見ていても、自分の思い込みやイメージが入っています。
曲を聴いても、主観が入ります。あるパートだけを聴いていたりします。簡単なところで歌謡曲など、多くの人は、歌詞やメロディは追うけれども、「○○の歌の××の部分、ドラムとベースの動きはどうだった?」と訊かれても即座に答えられない程度に、他は聞き流しています。
……ただ、これは人間に必要な機能でもありますね。街のなかで録音機で録音すると、いろんな音が混じってうるさいですが、実際に立っている時は必要な音だけ選択して聴くことができます。
「有りのまま」というワードは、近年、ディズニー映画で流行りましたね。歌がキャッチーだったのが流行の主な要因でしょうが、もっと前には「ケセラセラ」、更に前には「let it be」、他にも「インシャラー(Inshallah)」など、表現や意味することは違えど、どれも「人が介在できない」ものがそこにあるように思います。
演奏に置き換えたとき。
主観なく、自分の演奏をそのまま聴けているか? というとそうではない人は多いと思います。
指導するとき、あるパートだけ聴いてしまっているとか。
合奏のとき、相手の音を聴けていないとか。
有りのままって、案外難しい。
出してしまった音はもう自分の自由にならないので、だからせめて、出すところまでは自分で責任を持ちましょう、というのが練習ですよね。
或いは、この曲は興味ない、と思ってしまうこと。それも自分の志向が入ったもので、先入観を除いて向き合えば、良いところが見えて来たりします。少なくとも多くの人が支えてきた曲は、何かしら人の心を掴むポイントがある。その良さが分からないのは自分の経験不足やレベル不足だとも考えることができます。
また。自分については「有りのまま」が絶対良いかというと、そういう訳でもありません。人に失礼なことをするとか、不快感を与えるとか、そういったことは避けるべきです。人と関わる以上は、そうならないように勉強するべきでしょう。相手には泥つき大根を差し出さず、おいしく調理して出す。料理しないのであれば軽く洗うか袋に入れて持ちやすく、と誰でも自然に振る舞うのではないでしょうか。これが学習(練習)だと思うのです。
人間関係に於いても、相手をどうこうしようとか、これからどうしようとか、そういう希望や目標を除いたとき、いまそのままの関係を愛して満足することができるでしょうか?
私の場合、娘たちは総じて出来はまぁまぁ悪くないとは思いますが、やはり個々についてイライラする部分はあって、そこをどうにかして欲しいと願ったり怒ったりしますが、それも含めて愛せるかと問われれば、「それとこれとは別!」と叫ぶと思います(笑)。
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