無知の知
「自分自身が無知であることを知っている人間は、自分自身が無知であることを知らない人間より賢い」「真の知への探求は、まず自分が無知であることを知ることから始まる」というソクラテスの概念。
若い頃は、自分は何とかできるのではと思ってしまう。私もそうでした。だけど、やはり音楽もきちんと取り組めば学問のひとつであるので(数学と同じ括りになるそうだ)、理解が浅いと他人との差も分からないし、上達もしない。
故に、自分の実力が分からずに、無茶なところへ飛び込んでしまうことがある。
例えば昨年に私が山口幹文さんに二重奏をお願いしたこと。これは完璧に胸を借りさせて頂いたと認識している。しかし、私がもしそこで、ただ嬉しいという気持ちだけで取り組んでいたらどうだったか? と考えたりする。きっと自分の足りないところに気付かず、欠点を補う勉強にも至らなかったように思う。そして、次へ繋がることも無かった気がする。更に、そのときの至らなさをバネに頑張る、という気概も持てなかったはずだ。
そのときの私は、自分の足りないところ、気付かないところは自覚し、先生から吸収しようという気持ちでいたので、有益なチャレンジだったと言っても良いのではないだろうか? と少し自惚れてみたりする(笑)。
飛び込まないと得られないものもあるから、わきまえてばかりも考えものなのだが……一流シェフに、私の料理を食べてください、と素人が飛び込むようなもので、傍から見ているととてもハラハラさせられる。そう周りに気を遣わせないよう、そのあたりの匙加減は大事なのでは、と思う。相手が「失礼だ」と思うと先が無いのが、この音楽の世界だったりする。
何も進んで嫌われなくとも大丈夫。もし自分が、相手の眼鏡に叶うような、そんな見どころを少しでも持っていたら、先方から声を掛けてくれる筈だからだ。声の掛からないうちは、実力不足、経験不足、勉強不足と思って、ひたすら勉強を続けるべきだ。
(中には嫌がらせで声を掛けないような先達も居るようだけど、そこは放っておけば良いのです)
音楽に限らず、自分の体勢が整うと新しい話が来る、というのはよくあることだ。
少し無理な挑戦だったりして、「何故!?」と苦しむことも多々あるけど、それは神様が見てくれていて、「このレベルに届きそうだから、今度はこれにチャレンジしてみたら?」とチャンスをくれたのだと思う。
そこで失敗すれば後は無いが、成功すれば自分のスキルになる。最大限頑張っても無理なような挑戦はやってこない。頭と身体を適切に使いさえすれば、最終的に及第点くらいは貰えるだろう。
そんな連続で人は成長していくのでは、と思う。
安穏な人生を好む人も居るから、それが絶対幸せということは無いけど。一生チャレンジを続けるような仕事や趣味を持っている人にとっては、とても幸せなことではないかな。
ただ楽しく生きて、何も残さない人生って、私はぞっとする。
私の音楽なり言葉なり、何かによって誰かに少しの影響があり、またその人の言動によって次の世代の人が心動かされたら、どんなに良いかと思う。
そのために、生きている限りは何かを向上させたいし、たまには休むけど、努力も続けてみたい。年々何かを得て、何らかの部分で成長していき、それを娘であったり生徒であったり未来の人に見せたり伝えられるなら、私の存在した意義もあったというものだ。私のことは何も思い出してくれなくて良い。私のことを覚えていて欲しいのは、いま私の身近に居て私が好きだと思う人たちだけで。欲張りだけど、ずっと先、年老いた頃にでもふと思い出してくれたらいいなぁ、と密かに思っています(笑)。
| 徒然 | 09:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑